三宅地区「大歳神社」の萬古明燈
小富士山の「橿原神宮遥拝所」
三重町の「上田原御手洗神社」
神武天皇が碇を下した碇山(大分市滝尾駅脇)
神武天皇は実在していました。しかも、大分県にその足跡を多く残しています。『ウエツフミ』には、神武天皇こと第73代ウガヤフキアエズの命、幼名ヒダカサヌが、ここ竹田市周辺を本拠地にしていたことを裏付ける記述が多く残っています。
ここには「フタノボリの大宮」と呼ばれた重要な拠点が存在し、そこから奈良県の「橿原宮」に遷都したとあるのです。
『古事記』や『日本書紀』には書かれていない、もうひとつの古代史。
どちらが真実なのか?は、ぜひ、あなたの目でお確かめください。
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◆半日コース 4時間
ガイド料金2,000円
※ただし「道路運送法」の規制により、自動車をお客様で用意していただき、それにガイドが乗り込んでご案内するというカタチになります。
◆一日コース 8時間
ガイド料金4,000円
※ただし「道路運送法」の規制により、自動車をお客様で用意していただき、それにガイドが乗り込んでご案内するというカタチになります。
山彦こと、ヒコホホデミ(ホヲリ)が祀られた清川村の「御嶽山」の周辺には、謎のピラミッド状の山が乱立しており、その山のそれぞれに古代の神々が祀られていたのです。それはまるで「王家の谷」。
そして、ここは最強のパワースポットでもあり、普通の人でもかなり強い霊気が感じられるハズです。
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さらに、妻の豊玉姫が祀られた「神原神社」には、大蛇が籠ったという伝説の洞窟もあります。
⇒写真は白雉2年(飛鳥時代の650年)創建の下宮で、ここに豊玉姫が祀られています。
『ウエツフミ』の記述では、龍の姿を見られた豊玉姫は竜宮城に帰ろうとしますが、山彦と仲直りしたあと「直入の宮」で新婚時代を過ごしているのです。そして、祖母山・傾山には塩満玉と潮干玉(当時の三種の神器)が置かれていました。
ということは、このあたり一帯が「直入の宮」跡であったことは、ほぼ間違いありません。
現在の大分市内、稙田地区あたりには、「オオキタの宮」と呼ばれた古代の大都市がありました。
そして、この都を見下ろす御宝山(現在の霊山または障子岳)の頂には、ヤタの鏡が置かれていたのです。その場所と思われる「宇曽嶽神社」は、今はひっそりとその面影もありませんが、ウガヤ王朝歴代の天皇の御陵が置かれた場所であると記されています。
そして、『ウエツフミ』を深く研究していた吾郷清彦氏は、失われた75mの巨大遺跡「御陵古墳」(別名:木ノ上古墳、または稙田古墳)こそ、第38代ウガヤフキアエズ天皇のものであると結論づけています。
さらに、豊後国分寺跡に存在した「七重の塔」は、東大寺の七重の塔とウリふたつで、しかもこちらのほうが先に建てられているのです。なぜ?
現在は都市化が進んで、近代的な街並みが形成されつつある「南大分地区」ですが、つぶさに探すと、古い痕跡が確実に存在しているのです。
ぜひ一緒に、ウガヤ王朝が存在した証拠を発見しに行きましょう。
大野郡土師村の庄屋を代々勤めてきた宗像家、その土蔵から『ウエツフミ』が発見されたのは江戸時代末期のこと。この謎の古文書をめぐる「真偽論争」は明治時代まで続き、『東京日々新聞』の主筆・岸田吟香氏や、当時の大分県知事・森下景端氏、文部省の役人・吉良義風氏なども巻き込んで大論争に発展しましたが、結局ウヤムヤになったままです。当時の明治政府が進めていた「廃仏棄釈」と「国家神道」への統一政策に、真っ向からぶつかってしまったのです。
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それにしても、どうしてここに、豊後大友氏の初代・大友能直が鎌倉時代に編纂させた古文書の写しがあったのでしょうか?
さらに、ここには大友能直のお墓もあるのです。
それを解くヒントが「上津(あげつ)神社」にありました。ここには大分県の歴史上の有名人物、例えば緒方三郎惟栄、歴代大友氏、その家臣である戸次氏など、そうそうたるメンバーが寄進しており、天皇陛下が行幸したときのための客殿まであるのです。
なぜか、ここのご祀神は月讀命(月を守る神で天照大神の弟)であり、その理由が全く解明されていません。
また大分市内にある「西寒田神社」は、もともと大野にあったものを大友氏が移転させたという記述が『豊後国誌』にあります。
つまり、この場所は大友一族にとっては重要な聖地であったということです。
あなたもこの謎解きにチャレンジしてみませんか?
第12代・景行天皇は、ここ竹田市まで攻めてきています。それは、菅生(すごう)地区に本拠地を置く「土蜘蛛族」を滅ぼすためでした。実は、この土蜘蛛族こそ、ウガヤフキアエズ王朝の末裔たちであり、一般的には「日向族」と呼ばれていますが、大和朝廷との間で熾烈な権力闘争が繰り広げられていたのです。その様子は『日本書紀』や『ホツマツタエ』にも、詳細に記録されています。
そして、菅生地区にはこのとき滅ぼされた地元の首長のお墓が残されています。ここに住んでいた約3万人の住民たちは根絶やしにされたことが、その後の遺跡の発掘調査などからも裏付けられています。つまり、こここそが伝説の「フタノボリの大宮」跡だったのです。
『ウエツフミ』によると菅生氏とは、神武天皇に気に入られてその苗字を賜った名門だったのですが、その神武天皇の子孫であるハズの景行天皇が、なぜ菅生氏を滅ぼす必要があったのでしょうか?
歴史の舞台裏に秘められた意外な真実とは?
ぜひ口頭でお伝えしたいと思います。
「豊の国」を理解するうえで欠かせないもうひとりの重要人物が「真名野長者」なのです。
貧しい炭焼きの小五郎は、都からやってきた謎の姫と結婚することにより、祖母山中から金脈を発見し、大金持ちとなって、最後は豊後国の国司にまで昇りつめます。
そして、お忍びで大分を訪れていた用明天皇と、この長者の娘が結婚して私生児が生まれるのですが、この私生児・玉絵姫は聖徳太子の異母兄妹にあたります。
この長者の繁栄を憎んだ物部守屋は、大分の地まで攻めて来ていますが、長者の守り神「山王様」が降臨して、追い返します。
つまり、この真名野長者は、単なる成金ではなかったということであり、その後、大分県に仏教を導入するため「臼杵の石仏群」を作らせており、用明天皇・推古天皇・聖徳太子らが推し進めていた仏教導入政策を、資金的に援助していたのも、この長者だと言われています。
しかも、用明天皇が発願し、聖徳太子が建設した「斑鳩寺」のちの「法隆寺」とは、実はウガヤフキアエズ第69代天皇がニギハヤヒを祀った場所なのです。
なぜ、大分県と聖徳太子がつながるのでしょうか?
その解説を聞きながら、ぜひ伝説発祥の地・三重町の「内山観音(蓮城寺)」を見学してください。
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